暖かくて過ごしやすい日が続いていますね。
今年も4月6日(金)に宝塚市立スポーツセンター総合体育館で、平成三十年春巡業 大相撲宝塚場所が開催されます。《公式HP

今回の『セピア色の写真が語る』はそんな宝塚における相撲についてご紹介します。


小浜の勧進相撲」

日本の国技である大相撲のスタイルが花開いた江戸時代から明治にかけ、全国各地で「勧進相撲」が興行されました。ここ、宝塚の小浜でも、地元出身力士が主催する相撲興行が、皇大神社境内で盛大に行われたということです。


観衆が沸いた小浜の勧進相撲
古来より、神事や武芸として日本に根ざしてきた相撲は、江戸時代に庶民の娯楽として発展し、相撲を職業とする力士集団が京都・大坂・江戸などで結成されます。そして全国各地では、寺社などの建立・修築資金を集めることを目的に始まった「勧進相撲」が、盛んに興行されるようになりました。この勧進相撲が、現在の大相撲の原形と言われており、いまも地方巡業の主催者を「勧進元」と呼ぶ由来になっています。
明治5年6月、宝塚・小浜の皇大神社境内では、参加力士総勢290人という大規模な勧進相撲が興行されました。勧進元は、小浜出身・若の柳安太郎。親元は、米穀・醤油業を営む小浜の豪商・米屋鶴三郎。地元小浜と西宮勢との対抗試合も行われたことから、観衆が大いに沸いた様子が想像できます。

故郷に錦を飾った宝塚出身力士
かつて皇大神社に掲げられていた当時の「大相撲力士番付表」は、現在小浜宿資料館に展示されており、前頭7枚目に小浜出身の「若の柳安太郎」のしこ名を見ることができます。小浜の米穀商に生まれた若の柳関は、幼少時から家業を手伝い、10歳の頃には米一俵を軽々と持ち上げるまでになりました。これを見た相撲好きの父親よって相撲界へ送り出され、5年後には幕内前頭7枚目に出世。その後大関まで昇進して「谷風岩五郎」と改名します。38歳で引退するまでに、生涯勝率89%という驚くべき戦績を収めたということ。勧進相撲の興行で見事故郷に錦を飾った彼のお墓は、現在首地蔵のそばにあります。

セピア-番付
中央に若の柳安太郎の名がある大相撲番付表(小浜宿資料館蔵)

(写真・参考文献:改訂 小浜宿)


【ComiPa! Vol.44(2015年秋発行号)より】