かつて、兵庫県南部の山あいには飲料炭酸水製造所が点在し、天然炭酸水の産地として世界的に知られていたことをご存じですか?
今回の『セピア色の写真が語る』はそんな宝塚の炭酸水ついてご紹介します。


「宝塚の炭酸水」

宝塚の産業だった炭酸水製造
明治・大正時代、良質な炭酸泉に恵まれていた兵庫県では、飲料炭酸水の製造が盛んでした。なかでも川西市平野の「三ツ矢サイダー」、西宮市生瀬の「ウィルキンソンタンサン」、有馬の「有馬サイダーてっぽう水」などが有名でしたが、実は宝塚にも宝塚鉱泉という会社があり、「タカラサイダー」を製造・販売していました。
明治36年発行の『寶塚温泉案内』には、「ここの鉱泉に二種ありて、一を単に鉱泉と称し、他を炭酸泉といふ。鉱泉は温浴に適し、炭酸泉は飲料水として最も効験著るしく~中略~ 有志の人々相謀りて宝塚鉱泉と称し、広く内地及び海外に輸出する事となりぬ。故に宝塚鉱泉の名は一時飲料水として世に知られ」と、宝塚鉱泉について記されています。宝来橋の北側にあったとされる宝塚鉱泉は、明治30年頃から炭酸水の瓶詰事業を行い、明治42年に温泉場持主組合から独立して宝塚鉱泉合資会社を設置。後に宝鉱泉と社名変更しました。

温泉街にあった洋風のタンサンホテル
当時、宝塚鉱泉と双璧をなしていたウィルキンソン炭酸鉱泉の経営者は、英国人のJ・Cウィルキンソン。狩猟に行った宝塚の山中で炭酸泉を発見した彼は、明治22年に塩谷川沿いの紅葉谷に工場を設け、翌年に株式会社を設立。その後、西宮市生瀬へ工場を移転します。また、ウィルキンソンは海外からの客人をもてなすために、西洋建築の「タンサンホテル」を宝来橋の南側に建てました。昭和14年発行の『宝塚温泉の今昔』には、「而して同(明治)二十五年頃には、傍ら炭酸ホテルと名づける欧風建築をなし、現在の分銅家の上部に異彩を添え、頻りに外人を招いて、我が寶塚発展の為、大いに尽くす処があった」とあり、海外には宝塚ホテルという名で紹介されていたようです。神戸・大阪にも近く、風光明媚な温泉地の宝塚が、海外の人にも魅力的だったのでしょう。

タンサンホテル
タンサンホテル(宝塚大事典)

【ComiPa! Vol.39(2014年夏発行号)より】